2000年01月06日

その後の経過と3人目妊娠を決意するまで

*さかなのひとりごとに置いていたデータをコピーしたものです*

2人目の退院後、暫くは2週に1度の通院が続きました。黄疸が激しくならないかと心配されていたようです。4ヶ月頃、聴力が心配ということで眠らせて検査をしました。(異常なし)1~2ヶ月に1回の採血でしたが、数カ月たっても私の抗体が検出されたのには驚きました。最後の検診は1才3ヶ月、ちょっと遅いあんよが出来たところで発達に異常なしと検診を終了しました。

3人目を望んでいたものの不適合が分かったことで、諦めなければいけない状況になっていまいました。元気な子が2人もいるのだからそれだけで幸せ・・・なはずなのに、何故か毎日泣けてしまう。2人目が生まれて4ヶ月程は毎日泣いてばかりでした。

3人目を望みつつも決心出来なかったのは、やはりもしもの時には赤ちゃんが犠牲になってしまうことでした。2人の子供に恵まれていて、これ以上望むのは単に私の我が儘でしかなかったから・・・。遠い病院に通院すること(その当時幼児2人が家にいたので特に)、たくさんのお金がかかることも躊躇した原因でした。かと言って、赤ちゃんを諦め切れないジレンマ・・・出口のない迷路。そこから一歩歩み出す決心をしたのは、2人目を生んでから2年後のことでした。

「本当に赤ちゃんが欲しいなら出来るだけの努力をしてみよう。」最初に始めたのは病院探しでした。遠く離れた病院でなくても、案外近くで受け入れてくれる病院があるかもしれない・・・。隣の市にある県立病院、この辺りではここが一番大きくNICUもあり交換輸血の実績もあり。友人の妹さんが勤めていたので聞いてもらったのですが、NG。感作されていなければ受け入れ可能とのこと。(感作されていない=Rhマイナスで不適合を起こしていない状態)

たまたま出会った他の県立病院の産婦人科の女医さんに問い合わせたところ、県内の施設では大学病院くらいしかないそうで、あとは紹介された病院しかないとのことでした。県庁所在地にあるその大学病院と隣の県の大きな病院(紹介された病院)、交通機関の関係から考えて隣の県の病院の方が通いやすいので、そちらに相談することにしました。(その大学病院ははじめて妊娠した時に股関節脱臼があるから紹介すると言われた大学病院、のちに変形性股関節症でおつきあいすることになる大学病院)

すでに妊娠していたら受診したのですが、相談だけで大病院に行くのがためらわれ失礼は承知で手紙を出すことにしました。今までの経過と妊娠を望んでいることを書き投函、返事が来ないのは覚悟の上。返事が来なければすべてを諦めるつもりでした。そんな気迫が伝わったのでしょうか?(笑)産婦人科外来の受け付けの方から電話が来たのは数日後でした。「本来ならああいう問い合わせにはお答えしないのですが・・・。」という前置きの後、I先生が「僕が引き受ける。」と仰って下さったと教えて下さいました。善は急げ(笑)と、翌週電車を乗り継いで某病院に向かいました。

I先生のお話は淡々としていました。今まで押さえていた自分の感情(3人目を望んでいること)から涙が止まらない私、核黄疸の危険、難聴になるかもしれないなど前の病院で言われたことを気にしている私に「すべての原因は胎児が貧血になることだけ。そうなったら治療をすればいい。」と言われたのです。それはそうだけど・・・マイナス思考に片寄っていた私には拍子向け。(苦笑)その日は採血をし、2週間後に結果を聞きに行くことになりました。

2週間後、結果は当然ながらRh-E不適合。抗体価は256倍。「それって高いんでしょうか?」(抗体価が高いほど重症例なので)との私の問いには「けっこう高いねぇ。でも、高いからといって(症状が)必ず出るものでもない。」との答え。「僕が引き受けるから、今度は妊娠したらいらっしゃい。」もうひとつ、前々から気になっていた質問を。「輸血は気をつけないといけないのでしょうか?」これに対しては血液型の証明書(Rh-Eについての記載のもの)を出すから、輸血の際には必ず出すようにと言われました。

やっと1歩を踏み出せたことと、先生が「引き受ける」と言ってくれたことでとてもすっきりとした気分になれました。あとは赤ちゃんが来るのを待つだけ・・・。(笑)
posted by おさかな at 00:00| Comment(0) | 血液型不適合妊娠 | 更新情報をチェックする
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